鉱山に関わった人物
鉱山に携わった人物
■大島 高任(おおしま たかとう) (1826〜1901)
南部侯待医、大島周意の長男として生まれ、長じて江戸、長崎で蘭学を修め、後に水戸藩の反射炉、製鉄溶鉱炉を建設しました。
慶応2年小坂銀山が藩営になると製錬所の建設、戊辰戦争後の官営時には鉱山正権として熔鉱炉や英国式分銀炉を設けて洋式製錬を始め、南部家経営を経て、2次官営時にはオーガスチン法を実施して銀の生産を上げ、そして藤田組への払い下げに際しては、小坂鉱山局長として指導にあたりました。
退官後は日本鉱業会長を務めた、我が国の鉱業界の大恩人です。
■クルト・アドルフ・ネットー(Curt A.Netto) (1847〜1909)
■クルト・アドルフ・ネットー
明治6(1873)年12月、小坂村に一人のドイツ人がやってきました。その名はクルト・A・ネットー。ドイツ東部のフライベルク鉱山学校を優秀な成績で卒業した後、26歳で鉱山兼製鉱師として日本政府に招かれた「お雇い外国人」でした。お雇い外国人とは、「富国強兵・殖産興業・文明開化」を成し遂げるため、指導者として外国から招かれた人たちです。
ネットーの仕事ぶりは勤勉そのもので、彼の力によって小坂鉱山は近代化の道を歩み始め、その業績は高く評価されています。しかし、ネットーにはもう一つの大きな業績があります。それは、日本人の生活や信仰、日本の自然を深く研究し、帰国後ヨーロッパに広く紹介したことです。彼は小坂で暮らした4年ほどの間、この地方の風景や人々を精力的にスケッチしました。おそらく、村人たちとも親しく交流したにちがいありません。
明治10年(1877)に小坂を去ったネットーは、東京大学教授となり、多くの技術者を育てます。しかし、東京でも日本研究の手を休ませることはありませんでした。彼が小坂や東京で描いた作品や遺品の一部(33点)は、小坂町が所有し、「クルト・ネットー資料」として町有形文化財に指定されています。これらの資料は、小坂鉱山事務所展示室や郷土館に展示され、ネットーの業績にも触れることができます。
■藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう)(1841~1912)
伝三郎は天保12年(1841)、酒造業を営む藤田半右衛門の四男として、南片河町に生まれました。若くして醤油醸造業を経営しましたが、多くの志士に交わり、家業をなげうって尊王攘夷運動に奔走しました。のちに高杉晋作に従い、奇兵隊にも加わっています。
維新後は、わが国の商工業発展のために尽力することを決意し、大阪で軍靴製造をはじめました。明治9年(1876)、藤田鹿太郎・久原庄三郎の2人の兄と共に藤田伝三郎商社を設立、のち藤田組と改称して、鉱業を中心とする財閥として発展しました。明治18年(1885)には大阪商法会議所会頭となり、関西財界の指導者として活躍しました。大正元年(1912)没、享年72歳。
■久原 房之助(くはら ふさのすけ) (1869〜1965)
山口県萩市の生まれで、慶應義塾本科卒。明治24年藤田組に入社して小坂鉱山に赴任、明治30年29歳で事務所長心得となりました。
当時の小坂は土鉱が減少し、閉山の運命にあったものの、銀山から銅山として復興させるため、多くの人材を集めて黒鉱製錬に打ち込み、33年遂に黒鉱の自熔製錬に成功、今日の基礎を築きました。
38年藤田組を退社して日立鉱山を経営、久原鉱業(後の日本鉱業)日本汽船等を創設、また、政界に入って政友会総裁、逓信大臣を務めました。
■小平 浪平(おだいら なみへい) (1874〜1951)
栃木県都賀町合戦場の生まれで、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業しました。
明治33年藤田組入社、小坂鉱山の電気主任技師として、水路・変電所・発電所・電気鉄道・電灯設備などの建設、鉱山と地域社会の近代化に貢献しました。
明治39年に日立鉱山に移り工作部門で活躍され、後に日立製作所を創設しました。
■武田 恭作(たけだ きょうさく) (1867〜1945)
明治30年藤田組大森鉱山(島根県)から精鉱課長として来山し黒鉱製錬の研究、32年に技師長として欧米を視察、33年に黒鉱自熔製錬法に適した開頂式熔鉱炉の開発に成功、38年に特許第8553号「双外床式長形熔鉱炉」、第8628号「無蓋式長形熔鉱炉」を得ました。
明治37年に3代目の小坂鉱山所長となりましたが、翌年藤田組を退社し、武田鉱業本店(後の大日本鉱業)を創設、椿鉱山(現秋田県八森町)や加納鉱山(福島県)を経営しました。