歴史(施設、鉱山、年表)
鉱山の歴史
明治小坂のシンボル 旧小坂鉱山事務所の誕生
「旧小坂鉱山事務所」の誕生は、小坂鉱山近代化の歴史に深くかかわっています。江戸時代も幕を引こうとしたころ発見され、明治時代の近代化の息吹とともに躍動を始めた小坂鉱山。
後に日本鉱業界の父と呼ばれた大島高任や「お雇い外国人」として日本鉱業界を牽引したクルト・アドルフ・ネットーらに支えられ、明治初期の「富国強兵」「殖産興業」政策に貢献した小坂鉱山。
その流れは、明治17年(1884)に払い下げを受けた藤田組にも引き継がれ、主要鉱山の地位を確立します。そして迎えた明治30年代、土鉱とよばれた鉱石が底をつき沈滞期を迎えていた小坂鉱山に「黒鉱自溶製錬」の成功は、新たな活気をもたらしました。その起死回生にたずさわった技術者たちが、その後の日本鉱業界に大きな影響をおよぼすこととなります。
そんな順風満帆の時代、小坂鉱山を新時代のリーダーに発展させたいという藤田組の強い意志があり、明治38年(1905)に巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」は建設されたのです。まさに旧小坂鉱山事務所は日本一の大鉱山のシンボルでもあったのです。
小坂鉱山歴史年表
文久元年(1861) 小坂村農民小林興作、小坂鉱山(8/15)・相内鉱山発見。
上小坂の小笠原甚左衛門らの協力を得て稼行する。
上小坂の小笠原甚左衛門らの協力を得て稼行する。
慶応2年(1866) 大島高任が小坂鉱山を調査(4/9到着)。 南部藩に「希有の良山」と報告。
慶応3年(1867) 慶応3年(1867) 南部藩が大島高任に小坂鉱山の開発を命じる(1/17)。
藩営小坂鉱山に大島高任赴任、本格的な開発計画を立てる。
慶応4年(1868) 戍辰の役。南部勢秋田領へ侵入(8/9)。小坂鉱山の開発は中断し、荒廃に帰す。
明治元年(1868)「明治」と改元(9/8)
明治3年(1870) 小坂鉱山の官営再開により、大島高任鉱山権正赴任(2/15)精錬所の再開を図る。
明治4年(1871) 大島高任、岩倉具視の随員となり、ドイツの鉱山を視察、新製錬法を知る。
明治6年(1873) 大島高任視察から帰国、間もなく小坂を去る。入れ代わりにドイツ人技師
クルト・ネットー赴任、新製錬への転換へ着手。
明治10年(1877) 南部家が政府から借用して小坂鉱山を経営する(7/〜)。
明治13年(1880) 南部家小坂鉱山を返上、第二次官営となる(6/1)。
明治14年(1881) 大島高任によって、小坂鉱山オーガスチン収銀法を採用。
明治17年(1884) 藤田組へ小坂鉱山・十輪田鉱山払い下げ(9/18)。
明治18年(1885) 小坂鉱山、藤田組の経営で操業開始。
明治19年(1886) 仙石亮、小坂鉱山技長(翌年初代所長)。
明治25年(1892) 相内石灰山採掘。
明治26年(1893) 十輪田鉱山休山。
明治29年(1896) 小坂鉱山の用水工事(砂子沢川〜元山間)完成(3/〜)。
明治30年(1897) 銚子第一発電所の送電により、鉱山に電灯がつく(夏)。
明治33年(1900) 黒鉱自溶製錬試験に成功し、新製錬所の大工事が行われる。
明治34年(1901) 七滝地区に煙害問題が起こる。
明治35年(1902) 小坂鉱山黒鉱自溶製錬本格操業(6/〜)。
小坂鉱山は、足尾・別子とともに日本三大銅山と称される。
明治37年(1904) 小坂鉱山坑外全般に電車開通。
明治38年(1905) 小坂鉱山上水道完成(10/〜)。小坂鉱山事務所竣工。
明治40年(1907) この年度における小坂鉱山の生産額は日本一に。
(当時の秋田県「歳入決算額」の八倍強)を記録。
(当時の秋田県「歳入決算額」の八倍強)を記録。